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保土ヶ谷区内の七里堀と七里堰

 

   先日、上菅田町の字七里堀の地名について問合せを頂いた。その字名については知識がなかったものの、近くに七里堰、池ノ谷戸などの地名がある他、鎌倉古道には七里堀の地名があることを述べさせて頂いた。

また「堀」が付く地名から、菅田川に関係があると思われる事も付け加えさせて頂いた。

菅田川は昔は暴れた事もあるし、距離もそこそこ長く「七里」のイメージにも合うような気がした。

 

いずれも安易な考えから出た事だったが、その後、気になって少し調べてみた。まず問題となるのが、七里堀が低地ではなく高台にある事である。「字七里堀」の位置はぼんやりとしか分っていなかったが、調べてみると菅田川の近くだけでなく、高台の地区にまで及んでいる。

 

   上菅田みはらし公園の南あたりから、旧昭和電工社宅の南側まで広いエリアに亘っているようだ。当初は七里堰と七里堀は類似の名前ではあるものの、直接の関係はないと思っていた。だがよく考えてみると両所の位置は隣接地の関係にある。

 

  現在、七里堰のバス停がある所は峠の場所に相当する。国道16号線の東川島町から環状2号線を昇って行き、池の谷戸を左折し七里堰バス停を過ぎれば羽沢町への下り坂となる。

   この場所に、その昔、もし七里堰なる堰があったとしたら、その上流はどちらになるだろうか。

こう考えて目が向くのは当然、新幹線のトンネルの上を通って行きつく七里堀の方向である。両所は新幹線で隔てられてはいるものの、俯瞰的にみれば隣接地ともいえる場所に位置している。

 

 

七里堰から七里堀の東を通って行くこの道路は、尾根筋の道となって更に北へと延びて行く。曲がりは少なく一本道の様相で旭硝子の研究所の前を通って、更に北へ延びて行き、そして西北へと角度を変えて緑区の鴨居町へ繋がっている。

この一本道は尾根筋であるからほぼ平坦な状況で結ばれている。この尾根筋道の重要なところは、保土ヶ谷区と神奈川区の区境を形成している点であろうか。又はこの尾根筋道が帷子川水系と鶴見川水系の分水嶺となっている事かもしれない。古くは橘樹郡と都筑郡の郡境とされていた。

 

 

 

<明治初期頃の地図>

 

 

北へ向かった尾根筋道は鴨居町にぶつかった後、緑区と神奈川区の境となり菅田道路に合流する。南側は七里堰バス停の鞍部を越えて、南東から南に進路を変えて上星川小学校の前を通り、常盤台小学校入口の信号で大池道路に合流している。

ちなみに大池道路の地名は、峰沢町の上にかかる第三京浜の西側、通りの南側にその昔、大池があった事から呼ばれるようになったようだ。

七里堰の位置に実際の堰があったとは考えにくい。近世文書には当て字が多かった事から「堰」は当て字であったかもしれない。もしかしたら支配地を分ける意味の「関」の文字が本来のものであった可能性も考えられる。

菅田川の東に位置するこの尾根筋道は川から200m程離れており、南へ行くに従いその間の距離は広がるものの、ほぼ平行して走っている。この状況を俯瞰してみると、尾根筋道が菅田川の堰のようにも、巨大な堤防のようにも見えてくる。

 

国土地理院の土地条件図等を見ると、新幹線の北側の坂下バス停の辺りから三枚町方面は低湿地帯になっていたようで、同じく旭硝子の北側のバス通りの羽沢幼稚園前のバス停辺りから東泉寺方面は低湿地帯になっている。

これは平行に流れる鳥山川の影響とみられる。また七里堀一帯は山を切り崩して造られた造成地だった。 過去に氾濫した河川、鶴見川と帷子川には横浜市によって河川整備基本方針が策定されている。

 

明治の頃、菅田川沿岸部は湿地帯で水田なども作られていた。菅田川の西にある現在の県道青砥・上星川線の広い道は明治の頃には存在しなかった。ここまで推考を重ねてくると「尾根筋道は現在の県道の旧道であり、重要な交通路であったであろう」との結論が導かれる。

 

 

 

 

                           

                                            <国土地理院土地条件図>                                 

 

ここで最後の疑問、高台に何故「堀」があるのかについて論考してみよう。
鎌倉古道にあった七里堀について新編武蔵風土記稿は、山境に「七里堀」と云うところあり、
ここより引越村に至る七里ばかりをもって「七里堀」と云う、と記している。
してみると当時いうところの「(七里)堀」は川や水路ではなく、尾根筋に掘られた道路状
のものを指しているようだ。
 武田信玄が素早く進軍する為に造らせた「棒道」のようなものを「堀」と呼んだのであろう。
おそらく曲がりくねりながら進む谷筋の道よりも、ほぼ水平に辿れる尾根筋の道が好まれたの
であろうか。
 昭和6年の測量に基づいて作られた、立体地形のミニチュアが保土ヶ谷区役所に置いてある。
これをよく見ると、上菅田山崎から羽沢町方面にはまっすぐに深い谷が刻まれている。この谷
は現在新幹線の線路として利用されている。
妙福寺の裏も山に向かって谷となっている他に、正観寺の北側も山に向かって深い谷になって
いる。これらの台地を俯瞰して見ると、周辺は殆どが山であり尾根筋の道が生活道路であった
様子が窺われる。
上菅田町の七里堀と鎌倉古道(港南区)の七里堀とは、尾根筋道である、分水嶺である、行政
区境であることが共通している。
以上のように類似点が多い事から上菅田町の七里堀にも、鎌倉古道の七里堀の性格を持たせて

も大過ないように思える。 現代の感覚とは少し違うが、戦国期の山城では防御用に空堀を掘って、これを「堀切」と呼んでいた。

 

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