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坂本龍馬を斬った刀

 

 

Ⅰ.坂本龍馬を斬った男

 

坂本龍馬を斬った男は、原田佐之助から斉藤一となり、更に佐々木只三郎となり、渡辺篤、今井信郎、となり、昨今では桂早之助というのが通説となりつつあるようだ。最近放送されたNHKの歴史秘話ヒストリアでも、この桂早之助説を想定していた。

この番組の構成は次のようなものだ。

「天井の低い8帖間に一人で入り着座した桂早之助が、小太刀を抜きうちざま、水平に振り、その刀が龍馬の額を斬り、刀についた血が龍馬の背後の掛け軸に飛び散った」低い位置から刀をほぼ水平に振ると、掛け軸に残っている血痕の位置と合致するという。

 

この事件では数多い関係者の証言はみながみな、少しずつ違っていて合致するものは少ない。死闘が混乱のうちに行われ、それぞれが自分の思惑や利害を考えながら証言したかの如くである。

  その証言や現場の遺物、その他の日記や手紙などを総合的に考察してみると、二階に上がって龍馬と中岡慎太郎を斬ったのは、渡辺一郎、今井信郎、桂早之助の三人と推定される。

この三人は何れもが小太刀の名人であるとされているが、信郎の孫はこの説を否定して、信郎は常に三尺二寸ほどの大刀を愛用していたという。

 

今井信郎の供述は後に変わったので、一概には信じられないといわれるが、大筋では真実を述べていると思われる。
 信郎の孫の証言によると、暗殺事件の当夜から三日くらい経ってから、信郎は家に戻ってきた。そのとき右手の親指のところがぱっくり割れていて、自分で包帯を巻いていた。

信郎の妻がどうなされた?と聞いたところ、実はあの夜に坂本龍馬という者を斬った、と信郎が答えたという。


 信郎が親指を負傷したというのは、他に伝わっていない独自のものであり注目される。龍馬は最初に前額部を斬られ、次に後頭部または背中を斬られ、最後に額を斬られたという。

 

中岡慎太郎はまず後頭部を斬られ、その後11ヶ所も斬られ、藤吉も5~6太刀を浴びたとも言われる。現場には子供・峰吉も居たが、机の下に頭を突っ込んで平伏していたという。
  この時、近江屋の主人一家は一階に居た。8帖間の前の部屋には書生が3人居て、斬り結んだとも、すぐ屋根に逃げたという話もある。

だがこの現場の状況からは刀を抜いて、信郎に斬りつけた者がいたとは考えにくい。まして信郎は使い手であり、書生などに斬られるはずもない。

 

信郎が明治33年に知人に語った内容では、自分は龍馬と慎太郎にそれぞれ三太刀ずつ斬りつけたと言っている。渡辺と桂は手前の部屋で書生と斬りあっていたとしているが、自分が負傷したことには触れていない。

だが信郎の孫が、意図的にこうしたエピソードを作って話しても、何かしらのメリットがあるとは思えない。


 信郎の孫の話は当時の現場の状況とは一致しない故に、何故か一面の真実を語って
いるようにもとれる。作られた話ならば、もう少しもっともらしく事実を取り混ぜて作りそうなものである。

 鞘に残る傷などから、龍馬は咄嗟に刀を取って、鞘のままで敵の刀を受けたといわれている。その三太刀目を受けた時に、鞘はかなり削られて、なお勢い余った刀によって致命傷を蒙ったとされる。他に、刀の鞘を削られたのは慎太郎であるとの話も伝わっている。

 

渡辺一郎は大正4年に、自身の死を前にして子や友人に遺言を残している。その内容は自分が龍馬を斬った。その後、佐々木只三郎が龍馬の首を切り落した。というものである。だが只三郎の件は、後に誤って脚色されて伝わったのだろう。

一郎が残した遺言の原本「摘書」(明治13年)は、只三郎の首の件には触れていない。核となる部分には次のように記されている。

 

「2階へ上がり直ちに正面に坐し居る坂本へ斬り付け、竜馬後ろの床にある刀を取らんとせしも、取り得ず倒る、正面の竜馬に斬りつけ横に倒れた所を突っ込み、左右両名の者同時に討ち果たす」

 更に武芸には未熟の世良敏郎が現場に刀の鞘を忘れ、一郎が肩を貸し自分の袴の中に世良の刀を隠して帰って来たとしている。

 

一郎はその後、明治44年には「渡辺家由緒歴代系図履歴書」を書いたが、その一部は摘書の内容を取り上げているという。

 一郎の摘書は具体的に状況を述べているが、不思議なことに桂早之助の名前は出てこない。同行者は佐々木只三郎、渡辺一郎、今井信郎、某、某、世良敏郎としている。

 この「某」のうちの一人が桂早之助であったのだろうか。早之助はそれ程印象の薄い人物であったのか、それとも時を経て名前を失念してしまったのか。この点は今となっては確かめる術も残されていない。

 

 

Ⅱ.龍馬は初太刀で斬られた?

 

小栗流と北辰一刀流で、目録(免許ではない)を授かった程の腕を持つ龍馬が、初対面の侍の初太刀で傷を負うというのは考えにくい。幾ら交流が広かったとはいえ、公儀から追われている身分では、初対面の夜の訪問者に全く警戒感を持たないとすれば少しおかしい。

 

ましてその寸前に藤吉が斬られ、悲鳴と倒れる音などが聞こえたと思われ、龍馬は「ほたえな」とたしなめている。

早之助は大刀を、作法どおりに自分の右側に置いて正座したであろう。正座の状態からいきなり斬りつけるのには、刀を左に移し片膝を立て、間合いをかなり詰めなければ龍馬には刀が届かない。


  刀を抜く為には、縦に収めていた刀身を水平にして、鯉口をきらなければならない。そして鞘に入っている刀を抜くには、抜き身の部分だけ前に真っすぐ右手を伸ばさなければ抜けない。

 

 

右手を半円形に振ったのでは抜けない。右手を真っすぐ前に伸ばす為には、刀身を少し後ろに押し戻してやる必要があろう。龍馬がこうした早之助の動作を察知せずにぼうっとしていたとは思われない。早之助が脇差を使ったならば、状況は少し異なるが、間合いはその分だけ遠いものとなる。

 

すぐ傍にいた中岡慎太郎も警戒して、早之助の所作を観察していたであろうから、おかしな動きをすれば、徳利を投げるなり酒を浴びせるなり防ごうとするだろう。

また初太刀で頭を斬るのも違和感が残る。
  首をすくめるか後ろへ倒れこめば一撃は外せる公算が高い。
外されない為には、胸や腹を狙うのが良策と思われる。早之助は右手で小太刀を、左手で大刀を使う二刀流が上手かったという。居合いも心得ていたのだろうか。早之助はこの時点ではまだ人を斬った経験がなかった。

 

慎太郎もまた、いっぱしの剣客であったと伝わるが、彼もまた床の間の刀を取ろうとして、後頭部を斬られたという。

乱入者が着座しないで、次の間を小走りで通り過ぎて、件の8帖間の襖を開け、いきなり間合いを詰めて斬りかかったと仮定する。この場合は龍馬も気配を感じて、何事かと警戒し刀を取るなり身構えたことだろう。

 

乱入者は部屋の中で対座する二人のうち、どちらが龍馬か確認する時間も必要であろう。8帖間の襖を開けた正面は窓になっていて、天井は外に向かって斜めに下がっている低いものだった。右側に床の間と掛け軸があった筈である。皮肉にも、この掛け軸はその当日に龍馬に贈られたものという。

 

 

Ⅲ.龍馬を斬った刀?

 

早之助が龍馬を斬った刀が子孫の家に残されていた。土佐出身の漢学者で、歴史編纂委員となった川田瑞穂が調査に赴いている。
 早之助の娘婿の桂利器に面会し刀を見た川田は、「室内の闘争を想定して小太刀の名人のみを二階に闖入せしめた、利器宅にて右に使用せし刀を見せて貰ったが、二尺に足るか足らぬかの脇差程度のものであった。」と述べている。この川田は後に早大の教授となっている。

 

これを読む限りでは至極簡単な調査であったようで、諸文献のとの関わりや考察は述べられていない。調査が行われたのは大正5年のことであったと言うから、当時の川田の年齢は37歳くらいであった。

応対した利器の年齢は不明ながら、28歳で戦死した早之助の娘がその2年前くらいに生まれていたと仮定すると、50歳くらいになるので、その夫の利器は55歳くらいであったかもしれない。


 いずれにしても、桂早之助の娘と娘婿が所持していた父の遺品となれば、年数もそれ程たっていないので信憑性も高いものとなろうか。この刀はその後、霊山歴史館に寄贈され保存されている。

写真などを見る限り、この刀は切っ先や刀身にかなりの刃こぼれがあり、ぼろぼろになっている感がある。

 

          <坂本龍馬を斬った刀 霊山歴史館の展示品>  

           
 

全体に錆が広がって黒っぽくもなっている。この酷い刃こぼれから龍馬と数合に亘って激しく斬りあったとみる向きもある。だが早之助は龍馬を斬った一ヵ月後には、薩摩藩士に囲まれて斬りあいをしたという。
  龍馬を斬った刀を差していたとすれば、刃こぼれは、この時に付いたものかも知れないのである。この斬りあいは、見廻組としての巡回の途中のことであったという。

 

当時の京都では、いつ斬りあいが始まってもおかしくない治安状況であった。このように、緊迫した情勢のまっただ中に居る早之助が、脇差(?)とはいえわが身を護る差料を研ぎに出さなかった筈はない。

それとも、いつ必要になるかもしれない刀をぼろぼろに刃こぼれしたまま、腰にさしていたのだろうか。

更にこの斬りあいがあった一ヵ月後には、早之助は鳥羽伏見の戦いに参加し討死にしている。時系列的にみれば刃こぼれは、最後の戦いとなったこの時に付いたものと見るのが合理的だろう。或いは脇差を何本も持っていたのだろうか。

 

龍馬を斬った刀のもう一本に、今井信郎の大刀がある。龍馬殺害事件の翌月、信郎が鳥羽伏見の戦いに出征する直前の頃か、信郎が暫時家に戻って来てその刀を妻の「いわ」に託して行ったという。


 この刀はかなり曲がっていたらしく、鞘に真っすぐには入らなかったと信郎家に伝わっている。信郎は坂本と中岡を斬ったこの刀を、榊原先生にお目にかけてくれと言って、いわにはすぐ江戸へ帰るように指示した。この時の信郎の言葉は、いわから家族三人が聞いた内容とのことである。この時に信郎は併せて、守護職から貰った褒状もここにあると言った。

 

この刀は江戸に帰り、刃こぼれが激しかったので湯島の研ぎ師に出したが、後に上野彰義隊の変が出来して、その一帯は目茶目茶になり研ぎ師も刀も行方不明となったという。だが信郎の弟は榊原健吉から戻ってこなかったと言っている。榊原は一時この刀を自分で差して歩き、得意げに見せていたともいう。


 このニ本の他にもう一本龍馬を斬ったという刀が伝わっていた。これは渡辺一郎の刀を譲り受けた人が自称していたと見られる。この説を検証した信郎の孫は、一郎が書いた「刀二本脇差一本ノ明細遺書」には、そのような事は書かれていないと明確に否定している。


 

Ⅳ.龍馬に致命傷を与えた真犯人は誰?

 

 坂本龍馬の殺害事件は隠密裏に実行され、公表もされなかったことから一般に「暗殺」と呼称されている。龍馬はこれより前に寺田屋で、伏見奉行所の同心二人を射殺しているから、奉行所の役人などを同道し、事後に発表すれば暗殺とはならず、公務執行という言葉になったのではなかろうか。事実、今井信郎は職務上の命令により遂行した公務であると述べている。

 

 信郎の証言・話

明治3年

      2階に上がったのは、渡辺(吉)、高橋、桂。

       自分は2階には上がらず下で見張りをしていた。

 明治33年

坂本さんと声をかけ返事をしたほうに斬りつけた。

始めに横鬢ついで左右の腹を切った。

       続いて中岡の脳天を三回ほど斬った。

渡辺(吉)と桂は書生と斬りあっていた。

明治42年

       自分が先頭で2階に上がり、続いて渡辺(吉)佐々木の順。

中岡が抜刀して立ち上がったが、構わず龍馬の横鬢を斬った。

渡辺と戦う中岡の臀部を斬った。

佐々木は、貴様が余りに早いから俺の出番がなかったと言った。

 

 明治3年の証言は自分の替りに高橋の名前を出していたようだが、42年の話では桂の名前が消えて、佐々木の名前を出している。襲撃の責任者である佐々木が、現場を見届けない筈はない、おそらくはこれが真実なのだろう。
 
  この時点では時も過ぎて漸く、佐々木の名前を出せる状況になっていたのではないか。
尚、渡辺吉太郎と言っているのは渡辺一郎(篤)のことらしい。

信郎家に伝わっているところでは次のようだ。
  信郎が龍馬の部屋に入ったときに(龍馬一人しか居ないと思っていたが二人居たので)一瞬しまったと思ったが、咄嗟の機転で座ったまま、「坂本先生、お久しぶりです」と丁寧に挨拶した。

すると右手の一人が顎をなでながら「ハテどなたでしたかなあ・・」と顔を向けた。間違いなしと見た信郎は、抜き打ちざまに、その向けられた額を横に払った。驚いた左手の男が、脇差を掴んで立ち上がろうとしたので、抜く暇を与えず拝みうちの連打を浴びせた。

 

  龍馬は大刀の方へにじり寄って、背後を敵に晒す無防備な体勢となっていたので、後ろから袈裟懸けに斬った。その時に龍馬は実に気味の悪い嫌な悲鳴を上げた。続いての三の太刀を龍馬は鞘ごとうけたが、信郎の刀は刀身ごと削ぎとり、相手の体深く打ち込んだ。
 それきり龍馬は動かなくなった。
階段の方へ戻ると二番手、三番手の刺客がなだれ込んできて、右手の人指し指を味方の刀で傷つけた。

 

渡辺一郎の遺書

 

明治13年

2階へ上がり、直ちに正面に坐し居る坂本へ斬り付け、竜馬後ろの床にある刀を取らんとせしも、取り得ず倒る、正面の竜馬に斬りつけ横に倒れたところを突っ込み、左右両名の者同時に討ち果たす。

坂本の他に5~6人居たがことごとく討ち果たした。

同行者 佐々木、渡辺(一)今井、某、某、世良。(摘書)

明治44年

      渡辺由緒暦代系図履暦書を書く。

 

大正4年

      自分が龍馬を殺害したと話した。

      実行犯は自分の他に佐々木と今井で、他に3人。

 

いったいどちらの初太刀が龍馬を傷つけたのであろうか。

信郎は自分が先頭で入り、龍馬に声をかけ(自分が)斬りつけたという。之にたいし一郎の摘書の内容はその流れから、自分が龍馬に斬りつけたかのように読み取れるものの、明確に自分が斬りつけたとはしていない。

 

ここまできたら、真相の想定をしておかざるを得まい。

一郎の言う以下の手順は、混乱の際の記憶からなのか少しおかしい。

 

座している坂本へ直ちに斬りつけた。

龍馬は刀を取ろうとしたが取れずに倒れた。

正面の龍馬に斬りつけた。

横に倒れた(龍馬に)突っ込み。

 

自分が龍馬に三回斬りつけたかのようにとれる表現となっている。その通りだとすると、この間、慎太郎は何をしていたのだろう。

倒れた龍馬が正面に来たのだろうか。そこでまた斬りつけると、(再度?)倒れたので、そこを刺した(突っ込み)のか。倒れている龍馬に斬りつけるのには刀を振りかぶらなければならないと思われるが、部屋の天井は低い。それとも初太刀を受けた龍馬が立ち上がり、一郎の正面に来たものなのか。

 

暗くて狭い部屋の中で、刀を横に払えば仲間を傷つける恐れがある。襲撃犯は合言葉も決めていたというし、行灯も消えてしまったという。初太刀は信郎が斬りつけたもので、倒れた龍馬に二の太刀を加えたのが一郎だったのではないか。或いは三の太刀であったのか。

または慎太郎を斬っただけではなかったのか。「自分が龍馬を斬った」と言った、その意味は「自分たちが龍馬を斬った」や「自分も龍馬襲撃に参加していた」という意味ではないか。

一説に慎太郎は、脇差よりも短い小刀しか持っていなかったという。龍馬が襲われている間に、慎太郎は床の間の大刀を取りに行っていたのかも知れない。

 

龍馬は正面に座していたというが、正面に龍馬が居たとするならば、その正面には慎太郎が座っていた筈である。すると、襲撃犯たちはまず慎太郎の背中を見ることになる。龍馬に斬りかかるのには慎太郎が邪魔になる。
 慎太郎が後ろを振り向いて、座を移し道を明けてくれたわけではなかろう。

更に、六畳間の次の八畳間の正面は窓になっていて、そこから外が物干し場になっていた。
  龍馬は、右側の床の間の掛け軸の前に座っていたとされるから、この点でも少し現場の状況が異なっていて、違和感があるのが否めない。

 

これに対して、信郎は取り調べの際に現場の間取り図を書いていて、その内容は火鉢が机になっていた他は現場と一致しているものだったという。

 

                   近江屋の間取り
                             
      
              

先述の摘書の内容は核となる部分だけであり、前後の文章は略してある。全文を見ると、戦闘の内容は著しく簡潔であるが、その前後の状況は具体的に詳しく述べている。

 

一般的に、人は死ぬ間際に嘘は言わないだろうとみられる。しかし遺言の元になった履歴書は、その4年ほど前に書いていた物で、そのまた原本は明治13年頃に書いていたという。明治13年の時点では、信郎はまだ自分が龍馬を斬ったとは明らかにしていなかった。

一郎は自分が書いた由緒書を、否定することは出来なかったとも考えられる。信郎の孫・幸彦は、経歴、逸話、刀二本・脇差一本の明細遺書、刀剣、などを考察した結果として、一郎説を否定している。


 一郎が龍馬を殺害した事を否定しただけでなく、襲撃にも加わっていなかったと結論付けている。そして慎太郎を斬ったのが高橋
(久)安次郎と推測している。安次郎は政府に奉職していたので庇って名前を偽っていたという。

 

信郎の三男は、父から龍馬を斬った時の話は何度も聞いたと言っている。また信郎が、静岡に入る時には藩から充分な身辺の護衛がついた、島田市の初倉村の村長になってからも命の危険を感じていたという。


 一方、刀は残されているものの、早之助が龍馬を斬ったと証言したとする文献は見当たらない。慎太郎は襲撃犯は二人
(三人説あり)と言い残している。只三郎はともかく、早之助は階下で見張りをしていたのではなかったか。