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 足柄県とジョセフ・ヒコ

 

幕府はぺリーが2度目に来航したときに、現在の紅葉ヶ丘の県立図書館がある場所に神奈川奉行所を設けた。奉行所には30人を常駐させ、大金を投じて山下町に波止場や運上所を建設した。

三越の前身に当たる三井家が、本町で呉服屋を開業したのもこの頃である。当時の横浜港の形は自然の地形のままで、全面が埋め立てられた現在の地形とは全く異なるものだった。


 まだ横浜の人口は千人ほどであった。これより先に外国奉行は、西区の願成寺を開港準備の役所として使っていた。

奉行所の職務は警察署、裁判所、税務署、土木事務所などを、全て兼ねるほど多岐に亘っていた。この奉行所と運上所には併せて90人ほどの役人が勤務していた。慶応4年になると神奈川奉行所は、横浜裁判所及び戸部裁判所と改称され明治の改元と共に神奈川府から神奈川県と改称された。

 

初代の県知事には寺島宗則が任命された。江戸時代の金沢藩が六浦藩となり、更に六浦県から神奈川県となったのである。旧藩時代は小田原藩が4万石で六浦藩は1万石という小藩であった。

明治の世の中になり、村役人は運上所の向かいに設けられた町会所の町役人となった。保土ヶ谷本陣の当主で、名主の苅部清兵衛は横浜町総年寄り(三人)の一人に名を連ねた。
 
 後に戸長になった清兵衛は、道路も作り横浜の行政に多大な貢献をした。苅部家の先祖は北条家の家臣だったと伝わっている。

後に総年寄りは市長と改称されたことから、清兵衛は初代の横浜市長ともいえようか。
 本陣に宿泊した明治天皇は「苅部」と書くべきところを、「軽部」と書いた金一封を下賜した。これを契機として清兵衛は「苅部」から「軽部」に改称した。苅部姓は西谷周辺に多いが、こちらも昔は同族だったという。



             


 幕末の横浜では浜田彦蔵によって邦字新聞「海外新聞」が発行された。彦蔵はアメリカ領事館の通訳でジョセフ・ヒコと呼ばれ、ジョン万次郎と同様の経歴を持つ人物である。日本で最初の日刊新聞発行は明治3年のことで、県令・井関盛良の発案によるもので右から左へ横書きに書かれていた。


 明治4年になると廃藩置県が実施され、神奈川県と足柄県が誕生し神奈川県令には坂本龍馬の僚友の伊達宗光が就任した。この頃はまだ百姓5人組の制度が残っており、神奈川の人口は1万人ほどであったという。

足柄県は足柄、伊豆、高座、愛甲、津久井などを包含して成立した。明治4年には庄屋・名主が廃止され、戸長制度が生まれ太陽暦が採用された。足柄県は設置から僅か5年後には廃止されて、神奈川県に組み込まれた。

 

江戸時代には何回か混浴が禁止されたが、この頃改めて混浴が禁止されることになった。明治5年、県令の大江卓の骨折りによって十全病院(前身)が米国人を院長として開業した。
 治療しても金のない人からは取らなかった。今の市大病院であるが、少し前まで年配の人は十全病院と呼んでいた。


 ローマ字で有名なヘボンはこの頃、横浜で語学や編み物を教えていた。アメリカ人によってビール工場が生まれ、同社は後に「キリンビール」として成長していった。明治6年にはキリスト教の禁令が解除された。

地租改正に伴う農民の民権運動が激化し、現在の二宮町の露木卯三郎が殺害された。一族であろうと思われる露木姓は横浜にも多く、一部は大地主とも言われている。


 横浜港には大岡川が流れ込んでいるが、沿岸の住民などが糞尿を流していたために同河川一帯には悪臭が漂っていた。

この為、水売りの商売が充分成り立っていた。近隣の村から出てくる水売りは、肥桶のような桶に井戸水を入れて天秤棒で前後に担いでいた。横浜の衛生状態はこんな風だったから、明治10年にはコレラやジフテリアが流行した。15年のコレラでは県内で約11万もの人が死亡する惨状をもたらした。

 

帷子川の沿岸にはハンカチなどの染物工場が林立し、川の水は濃い緑色に染まり魚影を見ることは出来なかった。明治20年になり相模川から水を引く水道が漸く完成した。女好きと評判をとった伊藤博文は大磯に別荘を建て、わざわざ日本橋から芸子を呼んだ。これを契機として大磯は別荘地となり、ついで葉山が高級別荘地になっていった。  

山県有朋は三井の社長によって小田原に別荘を建ててもらい、隣家には愛妾を住まわせたという。