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横浜遊郭の遊妓・喜遊


 

 お吉と喜遊

 

 江戸末期には横浜にも遊郭が建設され繁栄していた。横浜遊郭の中でも中心的な役割を果たしていた妓楼「岩亀楼」の太夫「喜遊」はうら若き19歳であったが、異人の身請けを拒否して自害して果てた。

 攘夷派を任じる人たちはこの事件を聞くや喝采を挙げた。下田においてハリスの愛人の立場を受け入れた「唐人お吉」とは対照的な生涯を生きた喜遊。「お吉」も最初はハリスの申し出を頑なに拒んでいたが、ハリスが下田奉行所に、強硬な要求をするに及んで国際的な問題に発展しかねない事態となった。

 奉行所では名主と共にお吉を呼び出し、半ば強制的な命令を下したがお吉は頑として応じなかった。困り果てた奉行所はお吉と付き合いがあり、やや親しい間柄にあった奉行所同心をお吉に接近させ説得させた。

 このことによってお吉は漸くお国の為と覚悟を決めたと言われる。喜遊は遊妓となってまだ一年ほどしか経っていなかった。自害した時の年齢は一説には17歳とするものもあるが、なぜこの若さで自害をする決心をしたのだろうか。

 いま喜遊の心理を除くことは叶わないが、恋人と別れ添い遂げることも出来なくなったことが、その背景にあったのではなかろうか。喜遊の事件は17年~19年後の、明治(明治11年~13年)になって出版された錦絵「吾嬬繪姿列女競」によって広く知られるようになった。

 この書物は女優一覧表のようなものであったのだろう。「吾嬬繪姿列女競」によると、喜遊は深川の医師太田正庵の子で両親が亡くなり、吉原の甲子屋へ売られた。「子の日」と名乗ってデビューしたが、後に横浜の岩亀楼に移ったとしている。

 

 

 

 横浜遊郭

 

 横浜の岩亀楼は、吉原を手本にして安政年間に建設された港崎(みよざき)遊郭の中にあった。現在の位置は横浜公園の辺りで、同地には今も「岩亀楼」と刻された石灯籠が残されている。この時期に幕府は横浜開港を決定し、遊郭の建設はオランダに要請されたものであったという。

 幕府は遊郭の場所を現在の太田屋新田(横浜スタジアムの一帯)と決めたが、財政難の折から建設を請け負う者を探していた。そこに手を挙げたのが品川宿で飯盛り旅館「岩槻屋」を経営していた佐藤佐吉であった。

 佐吉は他の4人の同志と共に、沼沢地の埋め立てを開始し苦労して遊郭を建設し、その土地を幕府から借りて港崎町の名主となった。港崎遊郭には妓楼が15軒、茶屋が27軒ほど建設され、300人ほどの遊女が暮らしていた。幕府は近隣の商人にも出店を命じたため、繁華な町が出現することとなった。

 佐吉の岩亀楼は港崎遊郭のなかでも、ひときわ立派な建物で外国人用の3階建てと、日本人用の2階建ての2棟があったという。港崎遊郭はその周囲を堀で囲まれた島状の地形となり、出入り口は大門一つだけであった。完成してから10年ほど経った、慶応二年港崎に大火が発生し遊郭一帯は焼失した。

慶応三年に、今度は現在のJR線の南側・羽衣町辺りにあった、吉田新田の湿地帯を埋め立てて移転した。そのあたりには一つ目沼と呼ばれるかなり広い沼があり、中村川が流れ込んでいた。吉田新田の一部は遊郭の移転に伴い、吉原町・吉原遊郭と呼ばれるようになった。

太田屋新田の辺り一帯は横浜居留地となり、入口の吉田橋に関所が設けられた。これにより、吉田橋より海側が関内、外側が関外と表現された。

新設された吉原遊郭もその4年後にはやはり大火により焼失し、鉄道敷設の為に埋め立てられた高島町(高島町遊郭)へと、再移転を余儀なくされた。今も岩亀横町とよばれる一帯がある。

戸部町4丁目と5丁目の境にある道路の辺りがそれである。亀田病院から雪見橋に至る道沿いに割烹岩亀、ビジネスホテル岩亀、喫茶岩亀、サウナ岩亀、御休処岩亀稲荷の名前が残っている。また岩亀稲荷は、戸部町にあった岩亀楼の遊女の寮の中にあったものと言われている。

この高島町の遊郭も、長くは続かずに焼失し永楽町、真金町の辺りへと移転して行った。この永楽遊郭は昭和33年に売春禁止法が施工されるまで存続した。ちなみに落語家の桂歌丸の生家は真金町で芸者置屋を経営していた。

 

 遊妓喜遊

 

喜遊は懐剣で喉を突いて自害する際に、次の辞世の歌を残したと伝えられている。

「露をだに 厭う倭の 女郎花 ふるあめりかに 袖は濡らさじ」

だがこの歌は別人がうたったものとする者が多く、有力な説となっているようだ。喜遊については謎が多く、有吉佐和子や宮尾登美子が著作を残しているが、両人とも喜遊の伝説に対して真贋の判定はしていない。

ただ、有吉はこの和歌については、喜遊が自害するよりも前に、新吉原の遊女・桜木、もしは松葉屋の芸者・花園太夫がうたったものと想定しているように見受けられる。また別説として大橋衲庵や椋本京太郎を挙げる向きもある。有吉も念のためか大橋衲庵の名前も登場させている。

                     


 恐らくは「女郎花
(おみなえし)」の言葉が遊女の死に被せられたのだろう。この辞世の歌の他に次の遺書が残されていたという。

いかで日の本の女の操を、異人の肌に汚すべき。わが無念の歯噛みせし死骸を、今宵の異人に見せ、かかる卑しき遊女さへ、日の本の人の志はかくぞ、と知らしめ給ふべし。

辞世と遺書と二つがセットのように残されていたとするが、出来すぎた状況証拠の捏造のようにも見えてくる。有吉は創作の著書の中ではあるが、遺書は残されていなかったと述べている。

これとてもかなりの調査を行った結果の表現と思われる。いずれにしても二つ残されていたというのは、やや腑に落ちないところである。遺書はその文面から過激な攘夷論が窺われるが、それらしい心情の表現も見られる。よって遺書は実際にあった可能性はかなり低いながら、あったかも知れないが、辞世の和歌はなかったと推定しておこう。

喜遊は懐剣で自害したと言われているが、有吉は剃刀を使ったと示唆している、他に切腹説も出されているが、こちらはどう考えても状況にそぐわないものとなる。

喜遊の遺体は奉行所の調役、杉浦・刑部・長岡の三人が検死にあたり、その後、佐吉の指示で吉田新田の常清寺へ運ばれ火葬・埋葬された。いま佐吉(佐藤)家の子孫にその過去帳が伝わっていて、その過去帳には建部大明神の朱印が押されているという。

 

はかなく短い生涯を閉じた喜遊は江戸の町医者の家に生まれ、本名は喜佐子といった。父は箕部周庵で攘夷派に属しており、水戸藩士によるイギリス公使館(品川)討ち入り事件に加担していたとされる。周庵は捕えられて江戸追放処分を受け、品川に移り住んだ。(隠れた)後に父は病気になり、薬代などの多額の借金が出来て掛取りなどが足しげく訪れた。

そんな時にどちらから持ちかけたのかは不明ながら、北品川宿の名主・佐次平の計らいで喜遊は身を売ることになった。佐次平の兄・岩亀楼の佐吉が300両の大金を払って喜遊を引き取った。ここに喜遊の運命が決定づけられた。一説には200両とも言うが、喜遊が17歳の時のことである。

この際には、決して異人を客には迎えないとの約定があった。代償の一部であったのだろう、佐次平は周庵を自分の鮫洲の別邸に引き取って世話をしたという。喜遊は数か月のちには早くも喜遊と名乗り、遊女としてデビューしている。この時点ですでに琴・三味線、茶道、生け花、和歌の素養を持っていたらしい。

品が良く教養も身に着けていた喜遊の噂は、岩亀楼の異人館に出入りしていた米国人アボットの耳に入り、やがて見初められることになった。異人館の遊女は夜鷹の出身者も混じっていたらしく、日本人館の遊女に比べ品格が劣っていた。こうした事に不満を持っていたアボットが触手を伸ばしてきたのである。

アボットは軍人とも鉄砲商人とも言われているが、実はフランス人・アポネであった。アポネは岩亀楼と再三交渉したが、喜遊は頑として承知しなかった為、神奈川奉行所に捻じ込んだ。(別説にアボットはアメリカ人・イルスミンであり、米国公使の力を借りたとしているものもある。)

幕府はフランスとの借款問題もあり、断れる立場にはなかった。かくして奉行所は岩亀楼に、アポネと喜遊の仲を取り持つようにと指示を出し、やむなく佐吉も喜遊の説得に乗り出した。喜遊はあくまでも拒否し毅然として自害するに至った。文久2年、喜遊19歳の時であった。

喜遊が自害した翌月には鎌倉で殺人事件が起こった。鎌倉大仏見物の帰り道にあった、イギリス人ボールドウイン少佐とバード中尉の二人が斬られたのである。現場は鶴岡八幡宮の前の四つ角であった。犯人は清水正治(清次)他二名とされ、逮捕されて斬首の刑を受けることになった。

斬られたのはフランス人でもなく、アメリカ人でもなかったが、白人には変わりがなく喜遊自害の事件との関連性が色濃く漂ってくるのは否めない。

推察になるが、喜遊は攘夷論者の父の影響を受けていて極端に異人を嫌っていたのではなかったか。当時は異人が抱いた遊女は抱けないと言われるほどの世情であった。

重ねて、この時点で恋人も父も居なくなっていたという事も考えられる。諸々の事情が絡み合って自害の道を選択したのではないか。武士道に生きた気骨ある侍が、時に死に場所を求めたように、或いは喜遊も死に場所を探していたのであろうか。悲劇のヒロインを演出したかの如くである。