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  •  「秋黴雨(あきついり)  朽ちた茗荷が 初見なり」 見つからなんだ。 茗荷が四つ朽ちてあり。
  • 江戸時代のライター...?火を起すときは、火打石を火打ち金にぶつけて火花を飛ばす。飛ばす場所はモグサで作ったホクチだが、ホクチが燃える訳ではない。火だねが落ちた所のホクチをフーフー吹いて加熱し、そこへ付木を近づけるとやっと火が付く。付木は鉋屑のような物で、先端に硫黄がつけてある。

保土ヶ谷は工場地区だった ビール坂はその名残

 

今は高層マンションが立ち並ぶ相鉄沿線も少し昔は工場地区だった。

新住民も増えてきたこの頃は、大きな工場が幾つもあった町だったことは忘れ去られてしまった。この他、帷子川沿いには中小の染色工場が多く存在していた。帷子川で染物を洗ったりしていたので、下流には時々反物などが岸の草木などに引っかかっていた。

また廃液なども川に流していたのか、帷子川の水の色は今からは考えられない程に緑などの原色のどろっとしたもので、粘液のような色合いを見せていた。

富士ガス紡績の工場は、上星川にあったが大正に入り天王町に移転した。工場の敷地はなんとなんと6万坪もあったという。こうなると一つの街を形成していたと言っても過言ではない。

ちなみに工場内には病院や寮があり多くの女工さんが住んでいた。女工さんは東北や地方の出身者が多く、殆どが十代の子であったので工場内には学校まであったという。

周囲には高い塀が巡らせてあった。紫禁城なども想像されるようである。まさに隔世の感がある。街を色取っていた女工さんも、関東大震災では多くの死者を出してしまった。

 

神戸町にあった大日本ビール株式会社は、後に日本ガラスと合併し後者の名前を名乗った。ここから桜ヶ丘に登る坂道は今でもビール坂と呼ばれているが、今ではその由来を知る人も少なくなっている。この工場には製品搬出用の神中線(今の相鉄線)の引き込み線もあった。

更にその昔には石炭などの運搬船がこの近くまで運行していた。その当時の帷子川の岸は葦などの草に覆われていた。上星川辺りは昭和30年代までは農村そのままの面影を残していた。その後の20年間に高層住宅が建つようになり著しく様変わりしていった。

神中線はSL機関車で、相模川の砂利を運んでいた為に俗には砂利線とも呼ばれていた。

天王町には昭和42年まで保土谷化学の工場があり、その敷地は約二万坪もあった。いまは公団の団地となり高層マンションが建っている。

大正14年には横浜輸出絹メリヤスが神戸町に工場を建て、昭和に入ってからは、古川電池が星川町に工場を建設した。いまは岡野町に古川電工の研究所がある他、少し前までは西平沼町にサッカーグラウンドを持っていた。