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 土地は利用するもの

 

土地の価格は下がらない、土地は唯一実体的な有効資産であり、もっとも確かな担保になる財産との認識が広まった。土地を宝物のように扱うこの類の話は、諸外国では聞かないことからこの土地神話は国土の狭いニッポンだけのように思われる。

資本主義の世界では土地の売買は当たり前に行われているが、江戸時代までは基本的に売買は禁止されていた。(社会主義国では土地は基本的に国の所有物としている。)

 発足したばかりの明治政府は、財政的に苦しかった事もあろうが何度かの地租改正を行い大幅な税収増を企図した。明治6年政府は一つ一つの土地に対してその利用者に「地券」を発行した。

 ここに初めて現代に繋がる地主が生まれることになった。それまでは土地は朝廷や幕府、各藩のものであった。農村にあっては名主や有力者が多くの土地を所有し、村の共有の土地として耕地(畑)などがあった。山林や河川は入会地として共同利用されることが多かった。

 また不平等が生じないように、何年かごとに各農家の耕作地を交換していた所もある。このように江戸期までは土地は所有するものではなく、利用し収入を得るものであった。

 

 土地所有者の認定

 

 土地は後に投機目的などによっても、頻繁に売買されるようになったが今日の売買が始まったのが、明治の地租改正・地券発行に起因している。このエポックメーキングとなった「地券」は、日本全国の土地について所有権を認めるものとして発行された。いわば現在の土地登記簿制度がこの時に始まったと言える。


  
         


                 登記簿謄本 明治から始まっている

 

 この時の土地の持主を決める作業は短期間に行われたので、大雑把なものであった事が想定される。特に山林や原野は、境界も所有者も不明確なものが多かったと思われるが、官有林、民有林とばっさばっさと決めるしかなかったと推測される。皇室の私有財産として所有する土地も、多くはこの過程で決められていった。

 大蔵卿となった元薩摩藩士・松方正義の財政政策は、インフレは抑え込んだもののデフレを呼び起こした。先祖代々の土地を手放し都市部へ移住したり、小作人となったりする農民を多く生み出す結果となった。特に養蚕農家には壊滅的な致命傷を与えたが、後に松方は総理に就任している。

 

 土地売買禁止の解除

 

土地登記簿はその後格段に進歩していき、手書きからワープロの活字になり、現在ではコンピューター化して、権利証すら発行されなくなっている。これより先、明治4年には東京市に限って地券が発行され、翌明治5年になって「四民トモ田畑永代売買解禁」となったのである。


 江戸時代には基本的に禁止されていた土地の売買が、ここにおいて漸く自由なものとなり、これ以降、土地の譲渡に伴っても地券が発行されるようになった。譲渡のほかに質入れも自由であると保証される事となり、地券を持っていないものは地主とは認められない事とされた。

明治6年の地券には持主・所在地・地目・反別・地価・(地租)が筆書きによって記載されていた。現在の固定資産税評価証明と登記簿の性格を併せ持った公文書である。


 これによって初めて日本の地価が定められたことになる。多くの農民は地租改正によって従来の地租の数倍にものぼる大幅な地租の負担を迫られた。この為、各地
(茨城・愛知・三重)に一揆や暴動が起こり、殺傷事件も発生したが政府は徹底的にこれを弾圧する方針をとった。


 一揆の代表的なものは、困民党・自由党員を中心として起こった秩父事件である。同事件は埼玉・群馬・長野に跨り、参加者は延べ一万人とも言われ、四千人が処罰を受ける大規模な準革命のような暴動・決起であった。

 

 一大メイキングエポックとなった地租改正は、先進国の行政を研究に行った欧米使節団の帰着・報告を待つことなくして、性急に進められた政策という感を拭いきれない。この時政府首脳の多くは使節団に参加していたので、留守居役の西郷隆盛・井上馨・大熊重信によって、社会を震撼させた地租改正が実施されたのである。