不動産のことならなんでも
TEL.045-333-0181
  • 株式会社親栄商事 星川店
  • 株式会社親栄商事 西谷店

 坂本龍馬暗殺の黒幕は西郷隆盛?

 

 NHKの大河ドラマ「龍馬伝」は、よくぞ付けたりという程ピッタリのタイトルである。龍馬は全く人の良い善人・好人物に描かれている。維新前で人心も混乱期にあったとみられる、あの時代の志士の中にあれだけの好人物はいなかったであろう。

対して岩崎弥太郎は逆に嫌われ過ぎるキャラクターに設定されている。また福山雅治も、香川照之さんは汚さ過ぎると言っているように、まるで乞食同然の容姿となっている。

顔のほか歯まで汚していて、更にその家は板で囲っただけの掘立小屋で動きがあると床からは埃が立つ。史書でもなく新たに書き下ろした小説・創作である以上仕方ないことなのだが、しかし出来事など事件は史実を忠実に再現しているようでもある。

 

 龍馬を斬ったのは今井信郎

 

 坂本龍馬は捕縛されたのではなく、襲撃隊によって斬殺されたのであるからやはり暗殺と言うべきであろう。

その犯人というか、龍馬を斬ったのは当時新撰組と目された。(新撰組は当初から新選組と両方の文字が使われている。)直接手を下したのは見廻組の佐々木只三郎とも、今井信郎ともいわれてきたが、近年の説では今井信郎が最も有力なものとなっている。

この龍馬暗殺事件の前後には襲撃や抗争事件が頻発しており、それぞれが複雑な関わりを持っている。

分かりやすく順を追って見ていこう。

 

元治1年6月5日 新撰組が池田屋を襲撃(池田屋騒動)

慶応2年1月23日 寺田屋に居た龍馬は伏見奉行の役人に踏み込まれ、ピストルで応戦し逃亡。薩長同盟成立。

慶応3年4月23日 海援隊の船と紀州藩の船が衝突する事故があり、海援隊の船が沈没した。同船には大量の武器弾薬が搭載されていた為に、海援隊は莫大な損害を蒙り紀州藩に賠償金を請求した。

この交渉は長引き、龍馬は長崎において刺客に襲われた。

 

10月14日 徳川慶喜は大政奉還を申し出た。

11月13日 高台寺党の伊東甲子太郎が、近江屋にいた龍馬に面会し新
  撰組が狙っているから気をつけるよう注進した。

11月15日 近江屋において龍馬は中岡慎太郎と共に暗殺された。

11月18日 新撰組は京都油小路で伊東甲子太郎を襲撃し暗殺した。

 

12月7日 海援隊が、天満屋にいた紀州藩士・三浦休太郎及び新撰組隊
 士を伊達陽之助ら16名で襲撃。

12月9日 王政復古の大号令降る。

12月18日 近藤勇襲撃され鉄砲により負傷する。

 

 

 伏見の寺田屋で襲われた時に龍馬が持っていた拳銃は高杉晋作が上海で買ってきて龍馬に護身用にとプレゼントしたものである。

この時に龍馬は左手の親指と人差し指の間を斬られ、負傷したものの辛うじて逃げきり、薩摩藩邸に助けを求めた。龍馬と一緒に居た長府藩士三吉慎蔵は槍の名手であり長槍を取って応戦した。一説には龍馬は拳銃で奉行所の同心一人(或いは二人)を射殺したとされる。

 

近江屋襲撃

 

近江屋では龍馬は襲撃隊の侵入を許し、一説に額を真一文字に切り裂かれたと伝わっている。小栗流の免許皆伝で北辰一刀流の目録(免許皆伝説あり)である龍馬が、顔を斬られるということは不覚極まりない失態であった。肩先や手先ならいざ知らず顔ならば、咄嗟に後ろに引いて交わすこともできる筈である。


 夜のことであり、テレビも車もない時代なので夜は静まり返っていて、ほんの小さな物音もすぐに伝わってくる時刻である。刺客4人が階段を上がって、部屋に入ってくるまで気づかず、或いは何の警戒態勢も取らなかったのである。

また近江屋の宿直も人数が少なかったのか、案内に立った山田藤吉が斬られ悲鳴を上げた声も龍馬には聞こえていたが、さしたる注意も払わなかった。

池田屋で襲われた時には拳銃で迎撃し難を逃れたが、近江屋に居た時には拳銃は持っていなかったのだろう。


 拳銃を持っていれば当然1人~2人は射殺しただろうと思われる。だがこの頃龍馬の懐には海援隊の商売に利用していたのか「万国公法」が入っていたという。龍馬は拳銃はおろか刀さえ持っていなかったとも言われる。

 

襲撃したのは佐々木只三郎を隊長とする見廻組であり、他の三人は今井信郎、渡辺一郎、高橋安次郎である。

今井信郎は直心陰流の免許皆伝の剣格である。佐々木只三郎も名にしおう剣士であった。現場となった近江屋が土佐藩邸の向かい側に位置していたことも、龍馬と慎太郎が油断していた一つの理由とみられる。

いずれにしてもこの両名の士道不覚悟ということになろうか。


 渡辺一郎は後に名を篤と改め、大正4年に73歳で死亡した。渡辺の手記とされる文書「渡辺家由緒歴代系図履歴書」は同年9月に新聞に掲載された。同文書によると渡辺一郎が龍馬を斬ったことになっている。

同文書はその後も本や新聞などに掲載された。新撰組の隊士は順次加入した者などで延三百人程もいて、そのうちの何人かは大正・昭和の時代まで生存していた。
 このため幾つかの回顧録や聞き取り調査本などが出版されている。しかしこれら書籍の内容を比較すると、人によってその証言は異なっている。これは記憶違いや間違いに起因するとみられる。

渡辺に孫がいたように今井にも孫・幸彦氏があり龍馬を研究している。

 

龍馬暗殺の黒幕

 

伊東が龍馬に忠告した時には、龍馬は感謝するどころか不快そうな顔をしたという。龍馬は伊東を信用していなかったようだが、いずれにしても新撰組の分派である伊東に会ったこと、そして伊東に居所を知られたにも関わらずその後二日間も近江屋に留まった事は用心が足りなかったといえよう。

伊東は龍馬の居所を確認して見廻り組に知らせたとされている。その意図は見廻組に龍馬を暗殺させて、それを新撰組の仕業に見せかけることにあったかもしれない。

 土佐藩と新撰組を激突させるように仕向けて、新撰組の弱体化を図り佐幕派から勤皇派に変える狙いを持っていた節もある。

現に海援隊・土佐藩士は龍馬の暗殺を企図したのは紀州藩士の三浦だと思い込み、新撰組の強者の護衛がいることを知りながら、天満屋に斬り込んでいる。


 龍馬暗殺の現場に遺留品として残されていた、瓢亭の下駄や刀の鞘を置いて行ったのは佐々木只三郎とされている。そしてこの刀の鞘を、新撰組の原田左之助の刀の鞘であると証言したのは伊東甲太郎であった。

伊東と佐々木の共同工作が垣間見えてくる所以である。更に伊東は薩摩とも繋がっていた。高台寺党には元薩摩藩士が居て、大久保一蔵(後の利通)とのパイプがあった。高台寺党はその活動資金を薩摩藩から受けていたとみられる他、油小路で新撰組と斬りあいをした後、その残党は薩摩藩邸に逃げ込んでいる。

この龍馬暗殺前後の伊東甲太郎の一連の行動を見る限り、龍馬暗殺に何らかの役割を果たしたとみられるのもやむを得ない。

 

西郷隆盛は江戸で騒擾を起こしてまで武力による倒幕を企図していた。徳川慶喜をも、政権に加えようとする龍馬との溝は次第に深くなっていったのではないか。

この頃の西郷は権謀術数に長けていたようにも見受けられる。

また旗本の集まりである見廻組は当初、浪士の集団・新撰組を見下していたという。同床異夢ではあるもののここに伊東・佐々木・西郷の、龍馬を亡き者にするメリットが共有されたとも窺える。

龍馬を斬ったのは今井信郎説が定着しているが、その黒幕については幕府であったとかイギリス説まで取り沙汰されている。実行者よりもその指示者・教唆者が重要なのは言うまでもない。


 

 坂本龍馬暗殺は斉藤一

 

坂本龍馬惨殺事件は「龍馬暗殺(●●)」と言われている。何故刑事罰臭の漂う暗殺という言葉が使われているのだろう。暗殺には暗いイメージが込められている。幕吏の側からは、龍馬は寺田屋事件で捕吏二人を拳銃で射殺しているお尋ね者であった。

 

この時点では慶喜の大政奉還が奏上されていたが、警察機関としての役割はいまだ見廻組や新撰組が担っていた。しかし捕縛せずに惨殺して遺体を置き去りにしたことから「暗殺」したとの印象が植えつけられていったのではないか。

脱藩浪人ならまだしも、龍馬は土佐藩士に復帰していたことも理由の一つに挙げられる。

 

坂本龍馬を斬ったのは近年では今井信郎説が主流となっている。これまでには原田左之助を始めとして佐々木只三郎や紀州藩士など様々に言われていたが、どれも完全ではなく今一つ決め手を欠いていた。

 

少し詳しく見ると、中村彰彦は今井信郎説、池波正太郎は見廻組説を消極的に肯定。山川健次郎は佐々木只三郎が主導し、原田左之助が実行したと古老に聞いたという。また今井信郎の告白について、現場を見た谷干城は信じていなかったとしている。竜門冬二は下手人不明として、岩崎英重は今井信郎が関係していたと言っている。

 

 

 

 

土佐藩士の復讐

 

ここに新鮮味を持った斉藤一説が現れた。浅田次郎によるこの想定は、斉藤一は左利きで居合術の達人であるとしており、龍馬の傷とも一致して逐一頷けるものがある。

龍馬は額を一文字に斬られていたという。居合抜きで水平に刀を振ると正にそのような傷になる。

普通は袈裟懸けに斬りつけるものだが、天井の低い部屋の中ではあまり適さないこと明白である。

 

侍は室内では刀を右手に持ち、右足の脇に置いて座り敵意がないことを示す。龍馬は、斉藤一が左利きという事を知らなかった可能性が高い。斉藤一はその日の昼間一度挨拶に来ており、その日が初対面であったとしている。

 

浅田は斉藤一の刀は少し短いもので、反りが大きかったと肉付けを施している。多少とも知っている人間で、刀を右に置いたのを見た龍馬に油断があったのではないか。

龍馬が斬られて間もなく土佐藩士の谷干城が駆けつけている。谷はこの時に中岡慎太郎から、刺客が「こなくそっ」と言ったと聞いている。「こなくそっ」とは四国(伊代)の方言であるという。

この証言が事実であるとすると、斉藤一の可能性は薄くなる。もしかしたら中岡は、瀕死の状況の中で龍馬が言ったことを刺客の言葉と勘違いしたのだろうか。龍馬が「こなくそっ」という方言を使うかどうかは不明だが。

 

土佐藩士は色々調べた結果、紀州藩の三浦休太郎が画策したとみて、一か月後に三浦が居た天満屋に斬りこみを敢行した。この時は新撰組十人ほどが護衛していたために、三浦は危地を脱することができた。

一般に、この天満屋事件は三浦への襲撃とされているが、新撰組の中に斉藤一も含まれていたことから、斉藤一を狙ったという可能性も僅かにあろうか。

 

 

斉藤一が暗殺事件当時は、まだ高台寺塔に属していたことも浅田の想定を肉付けする。高台寺党の伊東甲子太郎は西郷隆盛とつながり、薩摩藩から資金援助を受けていたとみられる。同じく見廻組の佐々木只三郎も薩摩藩と関わりを持っていた。

龍馬暗殺直後には現場に高台寺党の篠原泰之進が呼ばれた。篠原は現場に残されていた刀の鞘を、即座に原田左之助の物と証言した。この時、伊東甲子太郎も篠原と現場に駆け付けたらしい。

 

龍馬暗殺から僅か三日後に、伊東甲子太郎は新撰組の策略によって漸殺された。

更にこの一か月後には、高台寺党の残党による近藤勇襲撃事件が発生し近藤は鉄砲の被弾をうけ深手を被った。新撰組と高台寺党は元々は一つであったのだが、分裂したことにより暴力団の抗争のように激しく争っていたのである。

 

暗殺告白は三人

 

ともあれ、自分が龍馬を斬ったと言った人間は三人である。捕えられた大石鍬次郎は、明治になり拷問を受けて自分が斬ったと白状したものの、明治三年には否定して見廻組四人の名前を挙げた。同年大石は処刑された。

今井信郎は同年の取り調べに対して、龍馬襲撃に参加していたことを認めたものの自分は手は下していないと供述した。だが時効となった明治三十三年には今井は自分が斬ったと打ち明けた。

 

この時点では龍馬暗殺に参加した見廻組のメンバーは全て黄泉の人となっていた。大正四年には、龍馬暗殺に参加していた渡辺一郎(後に篤)の子孫が、同家の系図・履歴を公開し渡辺が龍馬を斬ったと認めた。

この渡辺文書は新聞などに数年をおいて何度か掲載された。ちなみに斉藤一改め藤田家の藤田文書には龍馬関連の記事はないという。また永倉新八の「新撰組顛末記」にも龍馬の記事は記載されていない。

 

龍馬が投宿していた近江屋は土佐藩邸の向い側にあった。襲われた時には用心棒代わりの藤吉しかいなかった。他に近江屋の家人もいたのだろうが何せ龍馬は不用心であった。土佐藩邸に居ればよかったようなものだが、型にはまらない龍馬の豪放磊落さが仇となったようだ。

過去に二度刺客に襲われ窮地を脱していることから、妙な自信を持っていたのかもしれない。

 

龍馬は詐欺師になっていた

 

いずれにしても龍馬暗殺事件の現場に見廻組がいたことは疑いを入れない。見廻組が実行したのか、或いは暗殺を見届ける役目を果たしたのかどちらかであろう。

現場に刀の鞘と下駄を残す工作を弄したのも見廻組と察しがつく。

 

斬ったとされる原田は場数も踏んでおり、自分の刀の鞘を落としたまま帰るはずがない。また原田が暗殺を一人で実行したとは思えない。

原田が実行したのであれば新撰組の誰かを同行した筈だが、それらしき人物はおらずそれらしき供述をした者もいない。龍馬暗殺事件の当夜原田は近藤勇と一緒にいたともいわれる。事実であれば完璧なアリバイとなる。

 

今井信郎は直新陰流免許皆伝の達人であったという。谷干城は自分が見た現場と今井信郎の供述するところは一致しないと言ったが、見廻組の事後工作に惑わされた可能性がある。

暗殺の背後には、西郷隆盛―黒田清隆―伊東甲子太郎―佐々木只三郎のラインが仄かに浮かび上がってくる。今井信郎は明治五年に無罪放免で縛を解かれた。僅か二年半ほどの拘束で異例の処置とも思われる。

渡辺一郎が自分が龍馬を斬ったと言うのは、自分たちが斬ったという意味であろう。

 

 「もし今も龍馬が生きていたとしたら?」という問いに。

坂本龍馬の子孫は、

 「大ぼら吹きの商人か詐欺師になっていたのでは?」

 と答えている。